代表理事

ヒシャム・エルセル
Hisham Elser
ヒシャム・エルセル
【自己紹介】
みなさん、はじめまして。ヒシャム・エルセルと申します。私は、1976年にスーダン北部にあるナイル河岸の小さな村で生まれました。18歳の若い母親が生む初めての子供、どれほど待ち遠しかったことでしょう。みんなが元気な子供が生まれてくることを楽しみにしていました。
しかし、生まれてきたのは全盲の私、家族のみんなが衝撃を受けたようです。

村の社会では、視覚障害をもつ子供は何もできず、将来もなく、村での生活は不可能だと考えられていました。村の人たちは、私や母を心配し、哀れみの視線を向けました。「これからどうやって育てるのだろう」「かわいそうね」などと、哀れみの言葉が投げかけられたそうです。
根拠のないいい加減な助言を母にする人もいました。しかし、母はみんなと違って、私の誕生を心から喜び、母親としての愛情を十分に注いでくれました。そして、「絶対立派な人間に育ててみせる」と心に誓い、愛情と厳しさをもって育ててくれました。小さい時から、負けずに、あきらめずに、頑張れば何でもできるということを、母は私に教えてくれました。「私はいつまでもそばについているわけではありませんよ。だから、自分のことは自分でやりなさい。できないことはやってもらうのではなく、次に自分でできるように教えてもらいなさい」と母がいつも言っていた言葉を今でも覚えています。母のおかげで、私は盲学校に入学するまでには自立し、積極的に学ぶための力と自信をもつことができました。そんな母に対して、私は本当に心から感謝しています。

そして7歳になった時、私は盲学校へ行くことになりました。スーダンには、首都のハルツームにたった1校しか盲学校はありません。当時、ハルツームまでの道は舗装されておらず、バスで7時間ほどかかりました。7歳の私にとっては、首都に行くのは海外へ行くのと同じくらい遠くに感じられました。今まで馴染んできた村や遊び友達、家族と離れ、まったく違った環境で突然たった一人ぼっちで暮らすなんて、7歳の私にはどんなにつらいことであったか想像いただけると思います。その上、スーダンの学校は5ヶ月ごとの二学期制のため、帰省できるのは半年に一度でした。盲学校から半年ぶりに帰郷した折に、村の人々がほぼ全員で迎えに来てくれて非常に嬉しかったことを、今でも覚えています。私が生まれた時の反応とは全く変わっていたことを感じ、母もそう思ったことでしょう。

スーダンの盲学校は、小学校6年、中学校3年の9年制で、高等部はありません。盲学校で過ごした9年間は、とても楽しい日々でした。色々なことを先生方や先輩たちに教えていただき、充実した日々を送っていました。人生で、最も貴重な時期でした。

盲学校卒業後、私は地元の普通高校に進学し、さらに新しい世界に飛び込むことになりました。今までの盲学校の環境と違い、周囲はみな正眼者で、視覚障害者は私だけでした。また、この学校では初めてのケースだったので、先生方や生徒たちは私との関わり方で悩んだと思います。しかし、私は盲学校で身につけた経験を活かし、自分から積極的にクラスメイトに声をかけたり、他のクラスでも友達をつくったりと、たくさんの友人をつくることができました。しかし当然のことながら、学校には点字の教科書など、視覚障害者が学ぶための環境はまったく整っていませんでした。しかし、友人や先生方はとても粘り強く、教科書をテープに録音し、本を読み上げてくださいました。

また、私は自分のノートを点字で作るなどして、勉強についていけるようになりました。さらに、学校の行事や生徒会活動にも積極的に参加しました。たった3年間でしたが、非常に楽しく過ごすことができ、また、新しい経験を得られ、普通の社会に出るために備えることができました。その後のハルツーム大学法学部への進学は、私にとって大きな節目でした。大学の生活もまた、高校時代の生活とは大きく変わっていました。様々な学部があり、また様々な活動が行われていました。それは私の視野を広げる世界でした。そこでも、私は高校での経験を生かして、すぐにたくさんの友達をつくり、同じくテープや点字のノートを作成し勉強しました。

当時、ハルツーム大学の視覚障害学生の在籍者数は、約60人に達していました。しかし、学部を問わず、視覚障害者への特別な配慮は不十分でしたし、先生方からの十分な理解や協力も得られていませんでした。そのような状況で、私は次々と授業や試験を受ける上で困難にぶつかりました。これがきっかけとなり、ハルツーム大学で視覚障害者の生徒会を作ることになりました。その会の主な目的は、視覚障害者の存在を知らせるとともに、視覚障害者に関する理解を高め、視覚障害者の学生が勉強しやすいような環境を作ることでした。視覚障害者の会ができてから二年後、大学での生活がかなり変わってきました。寄宿舎に入居するにしても、各学部で特別な配慮が行われるようになりました。しかし、未だに多くの課題が残っています。

その後、私は大学を卒業し、すぐに法務省の実習生として選ばれました。とてもよかったのですが、またすぐ問題に直面しました。大学への通学は、バスを降りてすぐに大学へ行く道がありましたが、法務省は、バス停から30分ほど歩かなければなりませんでした。しかも、歩道も音声信号もないハルツームの町中は本当に危険でした。また法務省の中では実習生だったので、いろんな事務所に決まった時間に回らなければならず、とても厳しかったです。

そして、日本への留学の話をすでに日本で勉強している、アブディンやバシルさんから聞き、とても興味をそそられ、母国で学べなかったことを日本へ行けば学べるのではないかと考え、日本へ行くことを決意しました。日本に来てからもちろん言葉、食べ物、宗教や習慣などの違いがあり大変でしたが、時間とともに乗り越えることができました。そしてやさしい日本人ばかりに囲まれ、彼らのおかげで色々なことを学ぶことができました。私は岐阜盲学校で3年間、針灸・按摩指圧を勉強して、現在、岐阜大学教育学部で障害児教育を勉強しています。先に触れたように、スーダンには盲学校が1つしかないため、多くの視覚障害者は教育を受ける機会を与えられていません。そのため、私の研究の主な目的は、日本の盲学校の制度を学んだ上で、盲学校のセンター的な機能と役割に注目して、アメリカの制度と比較することにより、スーダンにおける視覚障害者の最適な教育のモデルを創造することにあります。

私の夢はすべての視覚障害者が教育を受けること、最適な仕事を身につけ、みんなと同じ生活をできるようにすることです。その実現のために、この春、私は大きな一歩を踏み出しました。仲間と共に、スーダン障害者教育支援の会を立ち上げたのです。今後この会の活動を通して、まずは祖国スーダンで、夢への実現に向けて、更なる歩みを進めたいと思います。

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