特定非営利活動法人 スーダン障害者教育支援の会

Committee for Assisting and Promoting Education of the Disabled in Sudan (CAPEDS)

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<今踏み出す>
 
モハメド オマル アブディン


 みなさん、こんにちは。私はスーダン出身の留学生で、アブディンと申します。現在、東京外国語大学大学院研究科平和構築紛争予防修士プログラムの1年生で、29歳の男性です。

 私は、スーダンの首都・ハルツーム州に、5人兄弟の次男として生まれました。私を含む上の3人はみんな視覚障害を持っています。病名は網膜色素変性症という進行性の病気です。小さい頃は、昼間は見えていても、夜間や暗い場所ではほとんど見えない状態でした。そのため、私は地元の通常の小学校に入学しましたが、教室が暗かったため、黒板のすぐ近くまで行かないと先生が板書した文字を読むことができませんでした。また、自分でノートをとることはできても、自分が書いた文字を読むことはできませんでした。まっすぐ書いたつもりでも、後で見てみると、上と下の行が交差していたり、行の途中から下の行に移っていたりと、なんと芸術的な書き方をしているのだろうと自分でも思うほどでした。それでも、12歳までは、きれいに印刷された活字だけは遅いながらも読むことができました。特に歴史の教科書はとても印刷がきれいで読みやすかったので、歴史ばっかり勉強していたのを今でも覚えています。
 しかし、中学校に入学する前にはその活字さえも読むことができなくなりました。それによって、私は耳学問たるものに完全に頼らざるをえなくなってしまいました。学校の友人や両親、遊びに来た親戚など、多くの人を巻き込み音読をしてもらいました。しかし生意気な自分は、人に音読してもらっている最中に夢の世界を行ったり来たりし、その上、記憶のあるところからまた読んでもらったりと、ひどいことをしていました。
 そんな私ですが、耳学問をすることによって新たな能力を強化することができました。それは記憶力です。カセットテープに録音する方法もありますが、私はそれに馴染むことができず、ずっと対面朗読を中心に勉強していました。その場合、本を読んでくれる人の都合と自分の都合を合わせなければなりません。みなさん、テストの前の晩に勉強していて眠くなるとしますね。そこで何時間か床に入り、また早朝から最後の悪あがきをしてテストに臨めますよね。ぼくの場合は対面朗読に頼っているので、お互いの都合が合う時間以外に勉強することはできませんでした。そのため、最後の悪あがきなんて思いもよらないことでした(笑)。そんな訳で、私は記憶力と山をかける能力を身につけました。普段の授業で先生がいきいきと説明している箇所とか、ここを勉強しろという箇所をほとんど暗記して、限られた時間でその箇所を重点的に勉強しました。そのため成績は良かったのですが、やはりテストのためだけの勉強になっていました。少年向けの雑誌や童話などを読む時間や、それを読んでくれる人がいなくて、どんなに勉強したくてもそれが叶わないという状況が続き、私は周囲の友人たちが自由に読書できることを非常にうらやましく感じていました。 
私の兄も同じ障害をもっており、彼は私にとってとてもよい相談相手でした。ある時私たち二人で本を読めない辛さについて語り合った時、兄がこういう言葉を口にしました。
「もしも、この世に本を読む機械がつくられたらおもしろいのにな。」
その話から10年、私は日本へ来て、コンピュータとスキャナー、そして音声読み上げソフトを目の当たりにし、これらのアイディアは昔兄が話したものではないかと感嘆しました。
 高校卒業後、私はハルツーム大学の法学部に入学しました。当時はまだ視覚障害者が少なく、大学側の対応も大変なものでした。大学側は特別配慮ができないことを理由に入学手続きを遅らせ、結局私は大学側に何も頼まないという条件で入学を認められました。
大学に入学できたものの、私はこれまでの得意とした耳学問がもう限界にきていることを感じました。理由は、先生に指示された文献だけでなく、自ら問題意識を持ち、それについて調べ研究する大学という高等教育機関では、それまでのやり方ではとても追いつくことができなかったからです。
 大学に入学してから半年が経った頃、私は日本の国際視覚障害者援護協会という団体の存在を知り、日本へ留学することを考え始めました。そして、日本では視覚障害者が点字やパソコンの音声読み上げソフトなどを利用して勉強することができるという話を聞いて、私は留学することを決心しました。日本へ行けばきっと道が開けると直感的に感じました。父の反対もありましたが、私はこのチャンスを逃せば一生後悔すると思い、留学を決意しました。
 幸いにも、その年に私は日本へ来ることができました。しかし、そこから多くの困難が待ち構えていたのです。私は、スーダンで3ヶ月間日本語と点字を勉強していたので、それで上手くやれると思っていました。しかし、成田に着いてから色々な方々と話すと、会話は長くても1分で途切れてしまいました。その上、視覚障害者援護協会で学んでいた他国からの同期の留学生と比べても、私の日本語はうまいとは言えませんでした。そこで、私は一生懸命日本語や点字の勉強をし、盲学校の入学試験に備えました。しかし、日本へ来てまだ1ヶ月も経たないうちに、入学試験を受けなければなりませんでした。当然のことですが、結果は不合格でした。受け入れ先が決まらずに、時間ばかりが過ぎていきました。私はあせりを覚え、せっかく日本まで来たのに勉強できずに帰らなければいけない状況をどうしても受け入れられませんでした。しかし、捨てる神いれば、拾う神もいるって本当ですね。3月になって全ての入学試験が終了した頃に、福井県立盲学校が受け入れを承諾してくれました。そこで暖かい家族に受け入れられ、素晴らしい先生たちに丁寧に日本語や東洋医学を教えていただくことができました。福井県立盲学校で鍼灸マッサージの勉強をし、国家試験をパスして免許を取ることができました。
 その後、視覚障害者に欠かせないコンピュータの勉強を2年ほど筑波技術短期大学で勉強し、東京外国語大学に入学しました。大学では多くの友人に囲まれ、そして、大学側の対応の素晴らしさに感動しつつ、なぜ自分の国であんなひどい対応を受けなければならなかったのかと憤りを覚えました。やはり、自分だけではなく、国にいる多くの障害者が少しでも勉強しやすい環境をつくっていけたらなぁと、私は考えるようになりました。しかし、頭の中で考えるものの、それを具体化する術を見つけることができず、私は自分がどれほど無力であるかを痛感させられました。それでも、何かできないかと、スーダンから同じプログラムで日本に来ていた2人の留学生と何度も話し合いを重ね、応急措置的に点字板などを送ることを決めました。そんな中、私に非常に力を与えてくれたのは、2年前筑波大学の私の親友からかけられた「この活動を手伝うよ」という言葉でした。私たちは、筑波大学の祭りで店を出し、その売り上げを点字板の購入金に充て、これまでに330の点字板を送ることができました。
しかし、もっと私たちにできることがあるはずだと、私は思っています。私たちが日本で学ぶ意味は、やはり日本の障害者教育の経験をよく学び、そして多くの日本の皆様にスーダンの障害者がおかれている状況を伝え、教育支援に賛同いただけるように努力すること。これは僕たちに課された使命だと思います。そのために、この春、これまでの迷いを振りはらって、これまでの散発的活動を組織化し、スーダン障害者教育支援の会という団体を立ち上げることにしたのです。
 日本に来て私は多くのことを学ぶことができました。勉強だけではなく、一人で生活する、一人で町を歩く、大好きなサッカーをするといった皆様にとって当たり前のようなことが、私にとってはこれまでの人生で最も感動的な出来事なのです。小さい時サッカーが得意で、学校から帰るとすぐサッカーボールを持ち出し近所の子供たちと日が暮れるまで遊んでいたのに、目の病気が進行し、大好きなサッカーができなくなり、自転車に乗って近所の友達と遠くへ行くことができなくなりました。子供の自分にとって、それは非常に耐え難いものでした。しかし、私は日本でまた文字が読めるようになり、形は違っても、ブラインドサッカーというスポーツに出会って10年ぶりにサッカーをし、一人で好きな時間に町をぶらぶらし、好きな時間に点字に直された本や、インターネットで様々な情報にアクセスすることができるようになりました。今私は本当に幸せです。だからこそ、この幸せ、この自由な気持ちを一人でも多くのスーダンの障害者に感じていただければと思うのです。そのために、私は時間と労力を惜しむことなく、率先してこの使命を受けることにしました。しかし、私一人だけでは何もできません。今までこの活動に賛同してくれた多くの方々に感謝し、そして、より多くの方々にもこの活動を知っていただきたいと思っています。そして、みなさまと力を合わせ、目標に向かって一歩ずつ進んでいきたいのです。その不確かな一歩を踏み出したばかりの私たちですが、皆様どうぞよろしくお願いします。