<人生の出会いに>
スーダン障害者教育支援の会と私
福地健太郎
みなさま、はじめまして。筑波大学で教育学を専攻しております、福地健太郎と申します。私は、ここ日本で生まれ、視覚障害をもちながら、日本の社会で育ってきました。
そんな私が、今こうしてスーダンという遠い国、まさに想像すらつかないような国からの友人たちと共に自らの体験を共有し合うことに、一種の感慨を覚えずにはいられません。
それは、日本とスーダンという二つの国を隔てる距離を越えてめぐり合った偶然性によるものからかもしれません。この機会に、私がどのような道を歩み、スーダン障害者教育支援の会設立に関わるようになったのか、みなさまにお伝えしたいと思います。
私は、1984年大阪府に生まれました。2歳で両眼を失明し、それ以来視覚障害生活は20年になります。「近所の子供たちの中で育って欲しい」という両親の願いから、当時父の仕事で引っ越した鹿児島県の、地域の幼稚園に通いました。小学校に上がる時、私は県の教育委員会から盲学校に入学するよう通達を受けました。当時の私にはあまり理解できませんでしたが、遊び友達とも家族とも離れて、全学年合わせてもたった数名しか友人がいない盲学校に入ることは、とても寂しいことのように思われました。両親は、私を地域の学校に通わせるための運動を行い、地元の小学校の先生も協力してくださいました。しかし、教育委員会の理解を得ることはできず、結局母の実家がある大阪に戻ることになりました。
大阪では、市の教育委員会の理解を得て、地域の小学校に入学することができました。以後、高校を卒業するまで、私は大阪の通常の学校に通うことになります。しかし、大阪でも、通常の学校で視覚障害者が学ぶ環境が公的に整えられていたわけではありません。私の点字の教科書は、ボランティアの方々に点訳していただいていました。また、私に関わる先生方は、みな点字を覚えてくださいました。さらに、数学や体育など、独力で参加することが難しい授業に関しては、同じ教科の先生が補助としてついていてくださいました。このような幸運に恵まれたため、私はここまでくることができたのだと思います。本当に、先生方やボランティアの方々、そして両親に感謝しています。
また、たくさんの友人たちとの出会いも、私の人生を豊かにしてくれるものでした。一クラス40人の通常の学校で、多様な友人から多くの刺激を得ることができました。ある時は秘密基地作りに夢中になり、またある時はギターに打ち込みました。火遊びをして怒られたことも、今ではすばらしい思い出となっています。中学3年生で生徒会長を務めた時は、生徒会の仲間が資料を点字訳してくれました。
もちろん、すばらしいことばかりではありませんでした。眼の見えない私にとって、ドッジボールなどの球技は、なかなか参加することのできない遊びでした。いくら友人が隣で走ってくれても、音もなく突然飛んでくるボールを自力で避けることは不可能でした。そこで、当時の私は、周りが球技を始める前に何か面白い遊びを提案したり、球技になんとか参加する方法を考えていました。
高校時代、私はその後の人生に影響を与えることになる二つの体験をします。ひとつは、タイのスラム街で生まれ、日本のNGOの奨学金を得て学んだことで、タイ有数の難関校に進学した方との出会いでした。彼女は、母親の仕事を手伝い、家計を支える傍ら、そのNGOの運営する図書館で勉強したのです。将来は外交官として、国際政治の視点から自分と同じように教育を受けられない子供のために働きたい、という彼女の話を聞き、私は教育が人間にもたらす力の大きさをおぼろげながらに感じたのです。
二つ目の体験は、福祉先進国といわれるスウェーデンへの、高校生視察団としての訪問でした。同国では、当事者団体からの要望により、視覚障害児は通常の学校で十分な支援を得て教育を受けることになっていました。この事実は、当時の私にとって十分に興味深いものでしたが、さらに、当事者の声がそのような政策を推進したということが、私には衝撃的でした。
通常の学校で学んできた自分の経験と、この二つの体験から、私は障害者に教育がどれほどの力を与えるのかという関心を抱くようになりました。そして、教育、国際協力、障害という三つの分野を横断的に学ぶことのできる筑波大学への進学を決意しました。
大学時代、私は前述の三つのキーワードを切り口に、関心のあることには何でも貪欲に挑戦しました。その中でも、ブラインドサッカーとの出会いはかなり大きなものでした。
昔から苦手意識のあった球技ですが、ルールを少し変更することで、まったく新しいスポーツとして楽しめるようになることを知ったからです。また、このスポーツを通して、我が友人であり、後にスーダン障害者教育支援の会の設立を持ちかけられる、アブディン君との出会いもありました。2005年の春、私は、アブディン、ヒシャム、バシールの各氏が祖国への支援を計画していることを知りました。以前よりの関心から、私は二つ返事で協力を申し出ました。これは、スーダンの問題でありながら、視覚障害者の問題でもあり、幸運にも普通学校で学んできた自分とは無関係ではないように思えたからです。
点字板を送るという計画に、私は、筑波大学の学園祭で飲み物を販売して、その収益を充てることを提案しました。そして、私たちの店は成功を収め、300台の点字板を送ることができました。
同年夏、私は障害者と国際協力を学ぶため、米国およびタイでの海外研修へと旅立ちました。米国のジョージタウン大学で社会学の理論を学び、障害者運動のメッカである米国の自立生活センターで、ピアカウンセラーとして研修を受けました。タイでは、途上国の障害者の権利擁護活動を推進するDPIアジア太平洋の地域事務所で、資金調達や国際的な障害者運動の動向を学びました。研修の締めくくりとして、国連障害者の権利条約の準備委員会への傍聴団に加えていただき、国際的に障害者の権利が実現されていく現場に立ち会えたことは、権利に対する私の認識を大きく変えるものでした。つまり、権利は当然のものとして最初から存在するのではなく、歴史の中で作り出され、ゆえに、行使することで守っていく必要があるということです。同条約の24条(教育に関する権利)は、私にとって特別な意味を持つものでした。かつては認められなかった、近所の友人と共に学びたいという思いが、国際的に権利として認められたからです。もちろん、盲学校など専門教育の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんし、障害児教育に専門性は欠かせないものだと思います。しかし、それぞれにあった教育を親や本人が選ぶ権利は認められるべきだと私は考えます。
帰国後、私はスーダンの障害者教育を支援する団体設立に加わりました。以前個人で行っていたような事業を拡大し、より多くの障害者を支援するためです。そして、私たちの出発を記念して、それぞれの思いをまとめることになったのです。
今こうして振り返ってみると、私の人生は、多くの出会いに溢れていたと思います。ここまで育ててくださった親や先生方、そしてボランティアの方々への感謝は、適切な言葉が見つからないほどです。そして、素晴らしい友人たちと出会えたこと、昨年の留学のように、たくさんの学ぶ機会に恵まれたこと、本当に幸運だったと感じています。
私自身恵まれていたため、スーダンの障害者のために関わりたいという、ありふれた動機付けがないといえば嘘になりますが、これまでの道のりを振り返り、私はこの会との出会いは、偶然ではなく、むしろ必然ではないかと感じています。この会の仲間と共に、一人でも多くの子供たちが、近所の友人たちと教育を受けられる日がくるまで、歩み続けたいと思います。